日本銀行・貨幣博物館 訪問記 | 泰星コイン<創業1967年>

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日本銀行・貨幣博物館 訪問記

2024年05月21日
 

目次

掲載画像について

当記事への掲載画像はすべて、日本銀行金融研究所貨幣博物館の所蔵資料となります。

筆者紹介

京都古泉会 会長 淳豊堂(じゅんぽうどう) 吉田 昭二
現在 『 宋銭綜鑒』編纂中 / 全十一巻の内、第十巻まで刊行済み
趣味:トレッキング、スキー等々、そして少々のお酒。古銭は趣味ではなく体の一部( 京都人 )

貨幣は時代を映す鏡

使われなくなった貨幣からは、それが使われていた時代に想いを馳せることができるのです。幸いにも国内各地には、古貨幣を広く一般に公開し、観覧できる施設があり、それらを身近なものと再認識していただくために、泰星マンスリー誌においては諸施設を紹介する企画がなされていました。

 

そこに展示されている品々の、解説をも含めた諸施設への道案内の役を当方にとの打診があり、そのような任に堪えうるのか些か不安ではありましたがお受けいたしました。

 

本企画によって諸施設へ足を運ばれる機縁になるのか、それが叶わぬ時は“ アームチェア・フィッシング”ならぬ誌上探索の手助けになるならば、その責の一端が果たせることとなり、望外の幸せと申せましょう。

 

それでは、まずは国内銀行の大本に併設されている日本銀行・貨幣博物館へご一緒いたしましょう。

心ゆくまで堪能できる場所、日本銀行・貨幣博物館

一代で築き上げた収集品の行く末がどうなるのか、所蔵者には一番に気にかかるものでしょうが、その顛末を見届け、ご自身が思い描いていた姿を見事にまで完結なされた方が実在します。そこには人と人との英知があり、緊迫した時代が否応もなく後押しもし、時と所を得て結実することになったのです。その精華を、心ゆくまで堪能できる場所が日本銀行・貨幣博物館であり、その場所に立つことのできる後世の我々は何と幸せなのでしょうか。

 

1884(明治17)年7 月、田中啓文氏(本名、兼)は東京・芝白銀台に生まれ、十歳のころには字替わりの古錢を集め始めていたそうです。二十三歳で「東京古錢協会」に入会して「清岳堂」と名乗り、三十一歳で號(ごう)を「邦泉(ほうせん)」と改め、1920(大正9)年4 月、田中氏が独自に結成していた「いずみ会」と、「東京古錢協会」が合併して発足していた「東洋貨幣協会」の第三代会長に就任し、1923(大正12)年1月には、自宅内に錢幣研究所「錢幣館(せんぺいかん)」を開設し、収蔵品の充実に努めたのです。田中氏は、戦禍が日増しに激しさを増した1945(昭和20)年1月、予かねて懇意の間柄であった日本銀行第十六代総裁・渋澤敬三氏との協議の結果、「錢幣館(せんぺいかん)」収蔵の十万点にも及ぶ蒐集品をことごとく日本銀行に寄贈し、被災を免れる方策を採られたのです。

 

渋澤総裁は、東京都下、北多摩郡保谷村に民族学会付属博物館を開設するなど、民俗資料の収集・研究家でもあり、日銀に入行された当時の手記には、「日本銀行に金融図書館と貨幣博物館を併設したい」との強い夢がある、と記されているほどに、文化財の研究、保護にはとりわけ理解が深く、大戦末期の惨状を憂え、「錢幣館」収蔵品についても心を砕かれていたのです。その時、総裁はただ単に収蔵品の保護だけではなく、将来の公開も視野に入れた深い洞察のもとに、1930(昭和5)年に、「錢幣館」に入って田中氏に師事していた郡司勇夫氏を、田中氏のあとを受けて継続した研究、整理を行える人物として館蔵品ともどもに迎えています。

 

 


錢幣館・田中啓文氏
鑑識、識見ともに兼ね備えた希代の蒐集家。十万点もの収集品を日本銀行に寄贈された。

 


渋澤敬三氏
日本銀行第十六代総裁。
錢幣館コレクションの喪失、散佚(さんいつ)を防ぎ、今日の貨幣博物館開設への道を拓く。

 


郡司勇夫氏
若くして錢幣館に入り、田中氏の薫陶を得る。
錢幣館の収蔵品とともに日本銀行に入り、日本の貨幣研究・蒐集界を牽引された。

 

 

郡司氏は1910(明治43)年11 月に東京神田に生まれ、総裁が見込まれた通り、その類い稀な識見は随所に発揮され、1972(昭和47)年から1976(昭和51)年にかけて執筆、編纂された『図録 日本の貨幣』全11 巻は、日本貨幣史を語るうえでは欠くことのできない燦然たる輝きを現在でも放っています。このような布石があったことに拠って、敗戦時のGHQ の担当者も、将来的に文化財の一つとしての公開を前提とするならば、田中コレクションを戦時賠償金の対象とはせずに手を付けなかった、と伝わります。

 

ではこれから、日本銀行分館の貨幣博物館内に向かいましょう。

日本銀行分館の貨幣博物館内 古代~中世

重厚な建物の二階に開設されている貨幣博物館の入口では、子供の背丈ほどもある大きな円形の石が出迎えてくれます。近づいてみますと、それはドロップ飴を大型にしたような形で、中央に穴が空いており、くすんだ白濁色なのですが、これが南洋のヤップ島で使われていた“ お金なのだそうで、その石が、何の支払いに使われたのか、額面は、移動はと、そばの階段の手すりの上に丸木舟が置かれていますから、椰子の浜辺が浮かんでくるのです。

 

日本銀行分館 貨幣博物館入り口辺

 

ヤップ島の石貨
ヤップ島は西太平洋上の島で、ミクロネシア連邦の西端に位置します。
石貨は現地ではフェイと呼ばれ、小型は30cm くらいから3m もの大きなものまであり、
日比谷公園に置かれていることでも有名です。

 

続いて記念撮影ポイントがあり、穴明き錢や大判、丁銀、紙幣が等身大に拡大されて置かれていますから、それを背景に子供だけではなく、大人だって良い記念にと、写真を撮ることをお薦めします。展示室には五つのコーナーが設けられていますが、そこへ入る前に、レクチャールームで貨幣の歴史をダイジェストで放映されていますから、展示品観覧の理解を深めるためにも、椅子に腰かけて、それを観てから入館するのが良さそうです。

L 字型に拡がった展示室では、展示貨幣を大きく五つの分野に別け、それぞれに見合った貨幣の現物(展示品の殆どは真正品、レプリカには注記あり)と、関連資料を同時に観ることができる配置となっています。

その五つの分野の一番目が「古代」をテーマとしたもので、我が国の貨幣のはじまりである皇朝錢と関連資料を紹介しています。

二番目の「中世」では、中国から渡ってきた貨幣(渡来錢)に光を当て、貨幣の使用が日本国内に拡がってゆく姿を追い、三番目の「近世」では、戦国武将が造っていた金、銀貨から豊臣秀吉の大判金、徳川家康の造った大判、小判や丁銀、そして多くの庶民が馴染んだであろう銅錢などが展示され、金属貨幣が国を動かしている姿を捉え、さらに紙幣の誕生から流通などにも大きなスペースを割いています。

 

展示室

 

四番目に移りますと「近代」がテーマとなり、明治新政府による「円」の導入に始まる諸外国と肩を並べる近代国家への建設が、貨幣によって支えられて進む場面を披露しています。

 

最後の五番目は「トピック展示」として、その時々の衆目を集める品が展示されているのです。

 

この五つの展示スペースはゆったりとした間隔がとられ、それぞれのテーマに合わせた貨幣が、手の届くような目の前に並べられているのですから、心ゆくまで眺めることができ、壁面パネルによる解説を読んで参りますと、貨幣への理解がいやが上にも深まり、まるで自身が使用しているかのような、臨場感たっぷりの構成となっているのです。

一番目のコーナーは皇朝錢(こうちょうせん)から始まるのですが、そこに並べてあるものに圧倒されるのです。まず銀で鋳造された和同開珎(わどうかいちん)が、「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな——」幾つ並べてあるのか貴重なものであるのは確かなのですが、どの一枚を取り上げてもコンデションの素晴らしさは言葉では表現できませんし、もちろん、それらは「手替(てがわり)」という面文が異なったものばかりです。その横には、われわれが普段手にする和同開珎銅錢とは鑄造期の異なる「古和同(こわどう)銅錢」と呼ぶ、古錢蒐集界には幾枚存在するのか、指で数えることのできる超超超珍品がさり気無く置かれ、さらに並んでいる皇朝十二錢のその一枚一枚が、これまた「役やくもの物」と呼ぶ稀少種ばかりですから、その前で立ち眩みを覚えたものです。当時の制度を解説するのに、百枚に近い和同開珎銅錢を用いていますが、もちろん本物ですし、これまた綺麗なものばかり。なんと贅沢な展示なのかと息を呑むのです。田中氏が、もの(売り物)が有った時代に一級品を選び、お金を出して集めたものが並んでいるのですから、当然と云えばそのとおりなのです。しかし良いものを選び、揃える眼力と感性は、並大抵では身に付かないものではないでしょうか。

 

いや~、以降のどのコーナーの展示品を看ても、同じような感慨を抱いて言葉が出ないのですが、それでは案内になりませんから意を新たにして次に進みましょう。

 

二番目の「中世」のコーナーには、中国から渡ってきた貨幣が、国内各地で使われ始めたこと、それを基にして、我が国で鋳造された「鐚錢(びたせん)」も生まれ、貨幣が物の売り買いの仲立ちをし、貨幣が欠くことのできないものとして認識されはじめた時代への変貌と、世の中の移り変わる様が、貨幣を通しても理解できるようです。例えばこんな逸話が、当時の通貨とともに一枚の絵によって紹介されています。或る時、鎌倉武士の青砥藤綱(あおとふじつな)が川を渡るとき、水の中に十文の錢を落としてしまいます。それを捜すために人を雇い、松明を用意し、その費用に五十文が必要だったというのです。ある人は「四十文も、損をしたではないか」と云えば、藤綱は、「失われたかもしれない十文は世の宝である。それが世に戻り、五十文の費ついえも世間を廻って行く」と、気に掛けなかったと云うのです。錢が世の中を巡る姿を描いているのです。一方、銀行のない時代ですから、備蓄し、盗難を防止するにも個人が行っていたのですから、壺などに入れ、錢を地中に埋めるようなこともあり、それが忘れ去られて今の世に出現することがあり、七千枚以上の錢が納められた壺の展示品は圧巻です。この時期の通貨と考えられている、大隅国、加治木で鋳造された明の洪武通寶(こうぶつうほう)を模して造られた背面に「加」の字が鋳込まれたもの。また、長崎での鋳造と考えられているものの中で、北宋の熈寧元寶(きねいげんぽう)を模したもので、「楷書熈寧」と呼ぶものの母錢(ぼせん)(附記①)など、その道を齧(かじった)者には身震いするような逸品が並んでいるのです。

 

和同開珎 銀錢

錢幣館の収蔵品の和同開珎銀錢は、
明治45 5 月に奈良県山辺郡都介野(つげの)村から発見されたものも含まれているそうです。
和同の銀錢は穴明き錢蒐集家なら、一生に一度は
我が筺底(きょうてい:収集箱)に一枚でも納めたいと願うものなのです。

 

銭壺

流通した当時の姿のまま発見されますからタイム・カプセルのようなもので、
それを間近に見られるのも嬉しいところです。
宮城県西臼杵郡出土。

日本銀行分館の貨幣博物館内 近世

三番目の「近世」に移りましょう。

 

人の見方はそれぞれでしょうが、この博物館のメインは「ここだ!」と、仰る方は多いかもしれませんね。燦然と輝く“大判、小判がザックザク”なのですから、頷ける場面ではあるのです。戦国武将のものから、秀吉、家康と、富と権力を誇示するかのように造られていた金貨、銀貨がズラーリと並び、可能なものは両面を見せるために、表面と裏面とが二枚置かれているのです。往時を紹介した西洋の記録の“黄金の国、ジパング”とは、将にこれではないでしょうか。金貨に先ずは眼が向きますが、戦国武将の「古丁銀(こちょうぎん)」と呼ばれる品々は、ここでしか見られないものが多く、一枚一枚は不整な海中の海なまこ鼠を思わせる仕上がりで、そこから醸し出される古雅な雰囲気と相まって、観る者の心を掴んで離さないでしょう。そのような貴金属で造られた貨幣が、商取引を活発にし、経済が躍動している場面が想像できるように、品数も豊富で多くのスペースが割かれています。

 

このコーナーでは、それら金貨、銀貨に眼を奪われるのですが、実は田中コレクションの神髄は、多くの庶民が手にした銅錢と、江戸の初めころから造られ始めた紙幣にあると、案内者は勝手に決めつけているのです。さりげなく並べてある寛永通寶の銅錢一枚が、萬延大判一枚よりも評価が高く、実際の存在数からしても稀少性は比べ物にはならない、と申しても信じて貰えないかもしれませんね。鋳造地が駿河国、沓谷村(有渡郡)とされている明暦期の寛永錢が並んでいますが、超大型の母錢(解説はない)なのですから、これなど評価は叶わないものだと思います。

 

紙幣とてそれは変わりなく、楮幣(ちょへい)(附記②)と呼ばれる紙幣は、伊勢に始まったと考えられる羽書から、諸国大名の領内で使用された藩札、そして旗本札に寺社や商人が発行した数々の札が展示されているのです。中には「忠臣蔵」に登場する播州・赤穂藩の城代家老大石内蔵助が変事に際して、領民には迷惑はかけられないと、領内で流通させていた延寶期(1673~)発行の銀札を、「赤穂の六分替え」と呼ぶ、額面の六割で交換したとされる銀壹匁(ぎんいちもんめ)札が展示されており、これなど貨幣が歴史の生き証人であることを示しています。万人が観て感激し、感嘆の声を挙げる大判、小判に銀貨類の展示品が目白押しですが、庶民が手にした銅錢に楮幣が、金銀の貨幣に伍して生活を支えていたことも事実であり、そこから離れて、貨幣コレクターの立場から観れば、ここは聖地であることをもっと声を大にして訴えなければならないと思うのです。

天正長大判

秀吉が製作させた天正期の大判で、重さは約165g、金の含有は73%です。
このものは同期の天正大判に較べれば上下に長く、特に「天正長大判」と呼ぶものです。
判面に書き込まれえている「拾両・後藤」と「花押」(かおう)は金座後藤家が書き込むもので、
このものは第五代、後藤徳乗の墨書きです。
表面の装飾のように打ち込まれている鎚目は、判の中も金であることを示しているのです。

 

古丁銀

その多くは西国大名が製造した丁銀。
「丁」の漢字には錢の意味もあり、言葉としての「丁度」にも掛け合わせて、
「丁度、銀である」ところから、丁銀の言葉が出ているとも伝わります。

 

山田羽書

伊勢、山田大路の長右(衛門)が引替元となって発行された伍分請取札。
慶長十五(1610)年発行と考えられるもので、山田羽書最古のものとされています。
上段の印版に「大黒図」と「丁銀」の文字がありますが、当時の慶長丁銀を意識した意匠となっています。

日本銀行分館の貨幣博物館内 近代

次は「近代」コーナーに参りましょう。

 

ここには徳川幕府二百六十年から脱皮して、「日本国」へ踏み出そうとする姿が、貨幣を通しても見出せる場所かもしれません。なにより幕府の三貨体制(さんかたいせい)(附記③)から貨幣自体が大きく様変わりしたわけで、幕末に盛んに持ち込まれる欧米の大型銀貨が世界の主流であることを知り、それに準じて、「両」から「円」へと舵を切ったのです。新政府の貨幣は、大きさも重さも均一を目指し、大判、小判に丁銀などの手作り感からは懸け離れたものが生まれ、紙幣は江戸期の楮幣にみた短冊形の縦長のものから、欧米での形である横広のものへと変貌したのです。

 

このコーナーの展示品を眺めれば、時代が唸りを挙げて、大きく転換しているところが実感できるのではないでしょうか。展示されている明治3年銘の二十圓金貨や、大黒様を図案化した百圓札を観るだけでも、丁髷(ちょんまげ)を切って、干支の年号も、時刻の表現、針の動きまで変えたのですから、貨幣の変化からも新時代を迎えていたことが解かります。その多くの技術は外国から得たものではありましたが、そこに描かれる意匠は、日本人の感性豊かな技能、技術から生まれたものも多く、諸外国の貨幣と比肩しても、一歩も引けをとらない精緻なまでの製作は、誇りとして胸を張れるものなのです。そして順々に、製造が純国産となってゆくところもみてとれますし、なによりも、貨幣を紹介したグラビアや、カタログの画像でしか知らない実物が、平台のケースの中に、あるいは壁面にと、一覧できる姿は壮観と云うほかありません。また、この博物館が特筆される点の一つに、庶民と貨幣との関係資料が数多く展示されている点も見逃してはなりません。例えば『高野聖』『歌行燈』のロマン派作家、泉鏡花の本が、定価壱円の「円本」として売り出されたこと、壱円で乗れた「円タク」、庶民生活を伺わせる売り買い、掛け売りなどを、通貨と対比させた展示は興味深く、幕末、明治の旅行者が支払う宿賃、お茶代までをも、現物の貨幣と対応させた配慮には感心いたしました。このコーナーにも、特筆せねばならないものが多いのはほかと同じですが、その道のコレクターにとって、涙がでるような渋い逸品があるところも紹介しましょう。江戸城が無血開城され、明治維新が形だけでも出来上がりはじめたころ、新政府の基盤はまだまだ脆弱で諸施策の難問は山積していました。その一つに、諸国の領内で独自に発行されていた「藩札」があり、通貨統一のためにも、その藩札と、新たに計画している「新紙幣」(附記④)とを交換する旨、明治4 7 月に廃藩置県の断行と同時に、公布しました。

 

ただ、世上に氾濫している藩札を使用停止などの措置で誤れば、民心の安寧は覚束かず、新政府の基盤を損ないますから、各藩ごとに交換比率を決め、藩札と新貨幣とを、期日と場所を決めて順次交換する予定をたてました。ところが小額札の交換に用いるはずの銅貨の製造が間に合わなかったのです(二錢以下の銅貨の年号は明治6年銘からです)。そこで窮余の策として、藩札の額面に見合う新価格を藩札自体に押印して、暫時、領内での通用を許すことにしたのです。その時に用いられた印鑑が「大蔵省印」と呼ばれるもので、それは厳しく管理され、使い終われば全て大蔵省に返納されたはずなのですが、全国、何処にも残されていないとされた印判が、此処へ来れば、その現物を目の当たりにできるのですから堪りません。

 

明治3 年銘二十圓金貨

直径は35.06㎜、量目33.33g、品位は金が90% で銅10%
明治4 年の『新貨条例』の制定により製造されてもので(銘は明治3年)で、
その精緻なまでの図案、意匠は、他国の貨幣に引けを取らないものです。

 

旧兌換銀行券 百圓札

エドワルド・キヨソネが大黒様を図案化した百圓札。
明治十五年、日本銀行条例の発布により、紙幣の発行権が日本銀行に移された以降に発行されたもの。

 

「大蔵省印」印鑑

印面部分は隷書で書かれた象牙製で、把手は柘植製。
壹厘から四錢八厘までの四十八種類を、各額面について五個を各藩に貸与したのです。
(四錢九厘、四錢七厘、四錢壹厘の三額面に見合う札はなく、作られていません)
この印章が捺された札を「省印札(しょくいんさつ)」と呼び、
その入手、発見に情熱を傾けるコレクターも多いのです。

 

最後の「トピックス」コーナーでおおよその展示は終わるのですが、ここでもまた、資料が盛沢山となっています。ここには、折々のテーマに合わせた品々が展示されているわけで、今回訪れたときには、現行紙幣の意匠が本年度73日から20年ぶりに替わりますから、発行される「新紙幣」の誕生を主眼としたもので、一万円札の渋沢栄一、五千円札の津田梅子、そして千円札の北里柴三郎の事績とともに、紙幣が生まれる過程が一目で解るのです。銀行、両替商、そして諸外国などとの関係諸資料なども示されていますから、その方面に興味を抱かれる方にとっては、見逃せないコーナーではあるようです。

 

以上の五つのコーナーに拘りなく、処々に置かれている興味深い展示品、あるいは体験コーナーとしての「錢一貫文」「千両箱」の重さなど、実体験できる場所でもあり、展示を通覧すれば、まさに【日本貨幣史】が物語り風に仕立てられているようで、その心憎い構成から、「ここが」「これが」と、自分だけの「一推し」するものに出逢えるかもしれません。さて、館蔵品の大部分を所蔵されていた田中氏が、終生追い求められていた東洋貨幣の精華を観て廻るのにどれくらいの時間が掛かるのか、それは看る人の思い入れ次第となるのでしょうが、映画一本を鑑賞するくらいの時間を掛けても、十二分に値打ちのある場所だとはお伝えいたします。出口に造幣博物館に因んだお土産コーナーも併設されていますから、記念に何かお選びください。斯く申す案内者、展示品鑑賞の興奮冷めやらず、買い物まで気が廻りませんでした。

 

附記 ①母錢
鑄造貨幣の場合、鋳型に溶けた金属を流し込んで製作するわけですが、その鋳型を造るためには
特別に設えられた母型を製作します。それを「母錢(ぼせん)」と呼び、その製作には金属や砂を吟味し、仕上げも念入りに行いましたから綺麗なものが多いのです。

 

附記 ②楮幣
紙の原料に用いたものが楮(こうぞ)であり、そこから楮幣の名が起こっています。
紙幣の材料には、各地に産する雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)が用いられています。

 

附記 ③三貨体制
徳川幕府は金貨(小判、分金)、銀貨(丁銀、分銀など)そして銅貨(寛永通寶、天保通寶など)を発行し、それぞれの交換値を決めており、それを三貨体制と呼びます。

 

附記 ④明治通寶札
新紙幣の製作はドイツに発注されましたから、ゲルマン紙幣とも呼ばれていました。

貨幣博物館へのアクセス

 

場所:東京都中央区日本橋本石町1-3-1(日本銀行分館内)

 

交通アクセス:
JR
・東京駅日本橋口から徒歩8分
地下鉄
・半蔵門線 三越前駅(B1 出口)から徒歩1分
・銀座線 三越前駅(A5 出口)から徒歩2分
・東西線 日本橋駅(A4 出口)から徒歩6分

 

開館時間: 9 時30 分~16 時30 分(最終入館は16 時まで)
休館日: 月曜日(ただし、祝休日は開館)、年末年始(12月29 日~1 月4日)
※このほか、展示入替等のため臨時休館することがあります。

 

入 館 料:無料

著者 Author
yama
趣味はメダカの飼育とキノコグッズ集め
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